老舗物語 ― 米忠味噌株式会社

komechu.jpg {味噌屋の手前味噌な話}
宝歴年間より大阪江戸堀にて米屋を営み、その後文政三年初代忠助が味噌醸造を専業に手がけるようになり、以来、米忠味噌と名付けて、食い倒れ大阪のお客様がたに愛好されている。大正・昭和・平成と引き続き、陛下ご来阪の砌には、ご食膳にのぼる光栄を得ている。
 上方料理とともに育てられた料理味噌として、昔から赤だしみそと称し、手前味噌ではありますが、日本一と「七代目当主・金澤忠俊」氏は自慢する。

 去る平成22年3月18日(木)甘辛のれん会の総会において、米忠当主金澤忠俊氏が、味噌のことについて講演をされました。以下はその概要です。

みその起源は古代中国の「醤(しょう)」だといわれている。醤は獣や魚の肉をつぶし、塩と酒を混ぜて壺につけこみ、100日以上熟成させたもの。今のソースや醤油と同じように使われていたようである。紀元前700年頃の周王朝には醤を専門につくる役職があり、王家の正式な料理「八珍の美」(8種類の基本料理)には120甕(かめ)もの醤が使われたと記録に残っている。醤は大変格式の高い調味料だった。
 紀元前1世紀頃になると、大豆や雑穀を発酵させた「鼓」(こ)が作られるようになる。

 醬や鼓がいつ頃、どのように日本に伝来したのかは、よくわかっていない。醬や鼓の文字が、初めて登場する「大宝令」(701年)には、中国にはない「未醬」という言葉もみられる。これは醬に日本人が工夫を加えた新しい調味料で、みその前身ではないかと考えられる。

 その理由は「醬」は「しょう・じゃん・ひしお」、「鼓」は「し・くき」、と読み、どれも「みそ」という音とはつながりにくいのに対し、「未醬」のほうは「みしょう」→「みしょ」→「みそ」という変化が、容易に想像できるからで、ちなみに「噌」という漢字は「味噌」以外には使われていない。みそのためだけにつくられた字なのである。
 
 むかしのみそはいまのように料理をする時に使うものではなく、食べ物にかけたり、つけたりしていた。また薬としても利用されていた。
「延喜式」(927年)によれば、当時の高級官僚には、もち米やみそが月給として支給されていた。みそは平安貴族の食卓にのぼっても庶民の口にはなかなか入らないぜいたく品だった。そのためか贈答品としても重宝された貴重の品だった。

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