のれん紹介 菱富

【のれんの歴史】
 明治32年(1899)に料亭として創業。創業当初より鰻を提供していたが、初代の早川兼三郎氏は「どうせやるなら、珍しい江戸焼を」と、東京から蒲焼き職人を呼び寄せ勝負を賭けたとのこと。江戸焼は、腹を割いて蒸さずに焼く大阪に対して、背を割いて白焼きしてから一度蒸し、タレを付けてもう一度焼くといった具合に、さばき方など調理方法が異なり、柔らかくさっぱりとした味わいが特徴である。今でこそ江戸焼うなぎを提供するうなぎ料理店は多いが、当時は大変希少であった。以来、「江戸焼うなぎ」にこだわり、船場の旦那衆をはじめ役者・芸人など食通の舌を唸らせてきた。

 文政2年(1819)に発行された今で言うところ大阪版グルメランキングである「大阪名物味ひものや玉相撲」には、うなぎ料理店が17軒も掲載され、掲載ジャンルの中で最も多い数となっている。とくに網島や北浜・道頓堀などに多く見られ、川の一画を天然の生簀として活用し、鮮度の良い鰻を提供したようである。大阪商人は、鰻を食して商売を「うなぎのぼり」にと縁起を担いだとも伝わり、鰻は商都大阪の郷土食であったとも言える。


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 昭和3年(1928)に、現在地の宗右衛門町に移転。当時の店舗は、木造3階建で、エレベーターがあり、地下に風呂も設けられるなど斬新な建物であったとのこと。旦那衆や役者・芸人のご贔屓が多かったからか、付き人の待機する「供待ち」と呼ぶ部屋が設けられていたとも伝わっている。
 戦前の宗右衛門町は「南地五花街」の一つとして賑わい、大和屋を筆頭に「一見さんお断り」の名だたるお茶屋・料亭が軒を連ね、品格と情緒あふれる景観を生み出していたが、太平洋戦争により一帯が灰燼に帰してしまう。菱富の店舗も焼失してしまうが、創業以来の秘伝のタレは疎開先で土の中に埋めて大切に守り抜き、新たに黒板塀がめぐる宗右衛門町に相応しい店舗を再建し、復興を果たす。現在は、花街をしのぶよすがもなく、雑居ビルが立ち並ぶなか、忽然と現れる「名代 鰻 江戸焼うなぎ菱富」と染め抜かれた暖簾が、宗右衛門町の伝統と格式を今に伝える。


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【のれんへの思い】
 5代目当主の河村真也氏にのれんへの思いをお聞きした。ご当主は、日本有数の鰻の産地として知られる浜松で修業後、生家の菱富に戻られ、代表取締役就任後も職長として板場に立たれているとのこと。「継いだ頃はまだ若く日々の仕事に追われる毎日であったが、子どもが生まれたときに『これだけ続いてきた暖簾なので残していきたい』とふと思った。ただ、それは次の世代が決めること。子どもが継がなくても「菱富」という「のれん」はどうにかして受け継がれて欲しい」と語られ、伝統と格式を誇るのれんへの熱い思いが伝わってきた。
                   
【のれん逸品】


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★出汁にこだわった「う巻」
まぐろ節と北海道産天然昆布による出汁にこだわったう巻は、上品な甘みのあるさっぱりとした味わいのなかに鰻の香ばしさが広がる逸品。


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