のれん紹介 先春園本店
【のれんの歴史】
先春園本店の創業について、家伝によると、十人両替の筆頭として大坂両替商の代表的な立場であった天王寺屋五兵衛家の番頭を務めた荒堀源之助が、各界の名士が集う茶席サロンに通ううち、お茶の魅力に取りつかれ、「天王寺屋荒堀源之助」として茶の小売業を始めたのが起源とされている。その後、中国明時代の皇室の名茶園、先春山にちなんで「先春園」と屋号を改め現在にいたる。
明治になり、先春園初代店主の荒堀源之助のもとで手代を務めた稲葉素貞は、慶応3年(1867)に源之助より事業を継承し2代目店主に就任。鴻池家や煎茶道家元の花月菴などの名家から出入りを許され、また、明治27年(1894)には陸軍糧食軍用茶納入業者に指定されるなど手堅く経営を拡大し、内平野町へと店舗を移している。茶の輸出も追い風となり、業績は順調に発展した。
先春園本店には、内平野町時代の店舗外観を描いた画幅が伝わる。明治時代に淀川の大阪と伏見を航行していた外輪蒸気船や天神橋とともに先春園の活気あふれる様子が描かれている。軒上看板には「先春園」と屋号が揮毫されており、「易堂」の署名と落款が据えられている。易堂は、幕末から明治時代にかけて大阪で儒学者・南画家・書家として活躍した寺西易堂(1824~1916)のことで、現在の中央区瓦町一丁目の自宅で私塾を開き、詩文・儒学を教えていた。明治以後は、大阪府勧業課長・大阪博物場長等を務めた。
江戸時代後期の大阪では、文人の間で煎茶が流行し、やがて大阪の花月菴流の流祖・田中鶴翁(1782〜1848)によって「煎茶道」という芸道として確立される。先春園の煎茶は、鶴翁をはじめ在阪の文人に好まれ、易堂もその一人であったと考えられる。先春園のあゆみは、まさしく大阪が誇る煎茶道の文化的広がりと軌を一にするのである。
江戸時代後期の文久2年(1862)、黄檗宗の僧侶で煎茶文化の中興の祖とされる売茶翁高遊外(1675~1763)の没後100回忌にあたり、青湾(せいわん)(淀川河畔桜ノ宮付近に位置し、豊臣秀吉がこの付近の甘く香る水を好んで茶の湯に用いたと伝わる。青湾の名称は、秀吉に仕えた茶人・大江青湾に因む。)において「青湾之碑」を建立し煎茶史に残る「青湾茶会」が盛大に行われた。この煎茶会の詳細が記録された「青湾茶会図録」を繙くと、松下園とともに先春園製の煎茶が用いられたことがわかり、創業後間もなくして、大阪を代表する茶舗として知られる存在となっていたようである。
【のれんへの思い】
9代目当主の沖野雅英氏にのれんへの思いをお聞きした。創業160有余年ののれんの重さを感じつつ、歴史がある茶舗であることと美味しいお茶を提供していることとは必ずしもイコールにはならないという意識を持っておられるとのこと。現在、売り上げの7割がインバウンドの需要によるのもので、海外の人々の日本茶に対する興味・関心は非常に高く、宇治茶の生産地として知られる京都府和束町まで足を運ぶ人も多いとか。このように、海外の人々の日本文化に対するリスペクトが高い中、質の高さと美味しさを極限まで追求し、厳選したもののみを提供したいと、その熱い思いを語られた。実際に、商品ラインナップも自信を持って提供できるもののみに絞り込み、1年前に比して7割をカットされたとのこと。また、お茶の美味しさとともに、楽しさも体験してもらいたいとのことで、店内に写真スポットや体験スペースを設けたり、茶会体験のイベントも計画しておられるとのこと。「情報化社会において、お茶にはほっと一息つき、心の静寂を取り戻す役割がある。今後は、海外のラグジュアリースペースの基準も視野に入れつつ、お茶を通して五感を満たす空間の提供を積極的に進めたい」と目を輝かせながら語られていた。沖野社長は、大学卒業後、ITコンサルタントとして活躍しておられたとのことで、お話しをお聞きしていて発想力の高さに驚かされ、日本茶の新たな展開への期待が湧いてきた。







