●老舗と私

3715159_s★菱 富<うなぎ>

 古いのれんに培われた伝統の味と技。そして変わらぬ暖かいおもてなしの心。寛ぎのひとときを演出する、憩いの食空間。<菱富>はそんなお店である。
創業明治中頃、食通が行き交う大阪ミナミの宗右衛門町の一角で、鰻一筋120余年の歴史のもとに、関東かば焼きを看板として、東西を問わず、関西の人にもなじまれている。
かば焼の真価は「タレ」にある。秘伝の「タレ」は創業以来、絶やすことなく受け継がれてきたもので、時代がどのように目まぐるしく移ろうとも、真心を込めたおもてなしの精神は、変わらないのが、<菱富>の想いである。

                           
 大坂では珍しい江戸風蒲焼きの伝統を守る老舗。うなぎを背開きにするのを本格としている。江戸風の蒲焼きは、焼く途中で蒸して、タレをかけて仕上げてあるので軟らかい
 <菱富>はうなぎ料理を格調あるものとし、大阪にあってもなお、江戸風を守り続け、今日にいたっている。
                             
 初めて<菱富>を訪れた時、先ず驚かされたのは、長い黒塀に囲まれた屋敷風の外観で、威厳を感じた。玄関に入ると、広い床板は、磨きこまれて黒光りしていて、老舗の風格を漂わせていた。その建物は、惜しくも姿を消し、平成八年に、現在の建物に新築された。今ではすっかり馴染まれ、手軽に昼食なども楽しめる。
                           
 一階のテーブル席。二階には、少人数の会食に最適な純和風の小部屋や、各種会合の広々とした座敷がある。大阪の都心とは思えぬ落ち着いた雰囲気があり、なごやかな「食」のひとときが楽しめる。
                               
 今年の土用丑は6月28日。さぞ鰻屋さんは忙しいことだろうが、私は毎年<菱富>の「うなぎ」に決めている。しかし、今年は新型ウイルス・コロナの影響で、ずっと巣籠り生活の連続で、大阪市内まで、出て行けるかどうか? 一日も早い収束を願うものである。
                               
 私がはじめて、<菱富>の蒲焼きを口にしたのは、ずい分昔のことで、古い黒塀の建物の頃であった。幼い頃から家族で蒲焼きを食べに連れてもらったのは、勿論大阪風のうなぎで、江戸風のうなぎのあることすら知らなかった。
 結婚して、夫から<菱富>のことを聞き、興味を示した私を<菱富>へ誘ってくれた。タレをかけて入念に焼いたうなぎしか知らない私が、はたして白焼きのうなぎが、口に会うだろうか? 不安のうちに運ばれてきた「うなぎ」は、軟らかくて口当たりもよくて、美味しかった。それからは、夫とミナミの宗右衛門町へ出かけた時は、<菱富>へ自然と足が向くようになった。
 
 現在のお店になってからは、二階のお部屋で、会席うなぎをいただいた。①先付 ②吸い物 ③お作り ④八寸 ⑤焼き物 ⑥煮物 ⑦揚げ物 ⑧酢の物 ⑨ご飯・汁・香のもの ⑩果物・お菓子・お茶と順序通りの膳だてで、格式ある「うなぎの会席料理」に満足したのは言うまでもない。
 その何れにもうなぎが、工夫して使われていて、いちいちうなずいてしっかりといただいているうちに、肝心のうな重が出る頃には、満腹で、お土産用に包装していただいた。それも、うな重を出す前に、お女将が、「うな重をお召し上がりになりますか? それともお持ちかえりにいたしましょうか?」と聞いてくれるのも嬉しい。
 格式のあるお店だから、こちらから、「持って帰りたい」といわなくても済むように、細かい心配りが感じられる。いわゆる<おもてなし>の心である。            梶 康子