昔、むかしのお餅のおはなし

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餅を主体とした羹(あつもの)の雑煮が、新年を祝う食行事として定着したのはいつ頃からだろうか?
 正月の神祀りに鏡餅を神饌としてお供えしたのは「正倉院文書」にも、記録されているから、飛鳥時代以前だろう。
 平安朝の宮廷で行われる年中行事にも四方拝(一月一日)に鏡餅を供える儀式があった。長寿を祝い年歯を重ねるという意味から「御歯固め」とされていた。生命の神秘を司る神に、先ず食べ物を供えるのは、食を無視しては生命の存在はなく、生命を無視して神の加護は考えられなかったのであろう。


 室町時代に入って、雑煮は保蔵(ほぞう)と言って体力を養う貴重な食べ物となったが、その頃から民間に普及していったとされている。
 第二次世界大戦の頃までは、大阪の各家々で、正月の餅搗きをしていた。台所にゴザを敷きつめ、その上に畳一畳分ぐらいの板を置き、トリ粉をまんべんなく広げて、餅の搗き上がるのを待つ。子ども達は餅を丸めるのが楽しみでで、それぞれエプロンをつけてもらい、板の両側に並んで待つ。
 いよいよ第一の臼が搗き上がる。餅は手際よく板の上に移される。これは鏡餅用だから子ども達はさわることも許されない。餅職人の長が、さっさと型を整え、助手がカンテキウチワであぶり、ひょいと餅をつまみあげてひっくり返すと、信じられないくらい美しい型の鏡餅が出来上がる。型がゆがんでも、ヒビが割れても縁起が悪いということから、子ども達は触れることは勿論、近くへ寄っても叱られたものである。
 第二の臼は、年の神様、神棚、三宝荒神様(これだけは三つ重ね)、仏壇、それから一家の長である父の守り神様、次いで家族全員の守り神様のお供え用の餅が作られる。子ども達は固唾をのんで見守り、自分の守り神様のが出来るのをみて安心する。これも作る順番があって、わが家の場合は大家族で、父、祖母、母、長男、次男、三男、四男、長女、次女、三女となっていて、三女の私は最後だから、ずっと緊張のし続きで、自分の守り神様のお飾り餅が出来る頃には、たったそれだけのことで、くたびれてしまったものだ。
 第三の臼は、雑煮用の小餅。職人さんがきれいに丸めてくれる。
 第四、第五の臼からは、子ども達の出番だ。職人さんが手ごろな大きさに切ってくれたのを競って丸める。好きな型に作っても叱られない。いろんな動物を作って楽しんだ。
 第六の臼以後は、ネコといわれるヨコ10㎝くらいのカマボコ型にしてエビ、大豆、黒豆、ゴマ、青ノリ、砂糖をそれぞれに入れる。また餅米にウルチ米を混ぜてウルウ餅も作る。ネコは、固くならないうちに、8㎜ぐらいに切ってワラで三つ編みの要領で編み、軒下に吊り下げておく。小餅がなくなる頃に、好みのネコ餅を一つづつとって焼いて楽しむ。保存用の餅にカビが生えないように、生活の知恵だったのだろうか。  葛 城 陽 子