故郷を訪ねて  神話発祥の地 <天岩戸神社>

WS000000古事記・日本書記に、天照大神は弟の素盞鳴尊(すさのうのみこと)が、悪いことばかりするので、お怒りになって、天岩戸へお籠りになったことを記しているが、その霊蹟の天岩戸を御神体としてお祀りする西本宮と、天照大神をお祀りする東本宮がある。
境内社殿の背後の断崖の中腹に天照大神が籠られたという処が広大な御神域とされている。天岩屋戸の直拝は社務所にお願いすれば、神職が案内してくださる。悠久の年月に培われた年輪に刻まれた大木に守られた神域は、神々しく、別世界を醸し出している。


西本宮と岩戸川の渓谷を挟み、相対して東本宮がある。昌泰年間(898)の記録に天照大神、天岩戸よりお出ましの節、思兼神其(おもいかねのかみ)の御手を取りて東本宮の土地に造営の社殿へ御鎮まりを願ったと記してある。
弘仁壬辰三歳(812)中秋に三田井候の遠祖、大神太夫惟基公(おおかみだゆうこれもと)が霊夢を見て、頽廃した社殿を再興し、深く崇敬をしたという。
神社に由縁の舞楽として岩戸神楽33番の古雅なる手振りを宮司社家代々伝え、氏子たち習い伝えて、祭典に奉奏する。毎年11月下旬より2月初旬にかけて、各集落において、民家に〆かざりをして、終夜舞い続け、黎明に及んで、岩戸開きと称する舞納めをする慣習がある。往時、この地を訪れる人が多く、寛政の名士高山彦九郎の参詣紀行。薩摩の歌人八田知紀礼参。水戸の烈士井上主人義秀等八名参籠して俳句「落つるには 手もなきものよ蝸牛」を残している。
また、大宝の昔、京都神祇官卜部朝臣参拝の記録あり、相当古くより、遠く九州にありながら、中央に認められていたことが考えられる。

皇室の崇敬も厚く、秩父宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下,常陸宮殿下、をはじめ皇族、侍従の代参等、が記されてる。

●天安河原(あまのやすがわら)  天照大神が天岩戸に籠られた時に、八百萬神(やおよろずのかみ)は天安河原へ神集神議(かむつどいかむはか)になった事を古事記等に記してあるが、天岩戸神社より500m川上にある天安河原は、その相談の場所であると伝えられている。この河原の一角に「仰慕窟(ぎょうぼがいわや)と称し、間口40m、奥行30mの大洞窟があり、願事がかなう。中風にかからないとの信仰があり、石を積み重ねて祈願する慣習がある。個人差はあるだろうが、一種の霊気さえ感じるゾーンである。交通の発達した昨今は、国内だけでなく、外国の観光客も見かける。      
<参考資料・天岩戸神社略記>   葛 城 陽 子