ふるさとを訪ねて<滝泉寺(奈良県、吉野、北山村)>
悠久の歴史の中で、平凡ながら人生を全うする者と、その家系に生まれたばかりに幼い命を心ならずも断たれ、悲しみを残して死んでいった人たちも多くいる。歴史を学び、物語を読むたび、やりきれない怒りと哀惜の想いを感じるが、今回滝泉寺を吉野の山深く訪ねた。臨場感がそうさせるのだろうか、胸が痛む思いをした。
後醍醐天皇の文保年間より後亀山天皇の元中年間末に到るまでの57年間、南北両朝が皇位を争った。いわゆる南北朝時代のことである。後亀山天皇は、元中9(1392)年
北朝の申し出に応じ元中の盟約を結んだ。
1、父子の礼を以って神器を北朝の後小松天皇に譲る。
2、後亀山天皇に太上天皇の尊号を贈る。
3、以後、南朝・北朝が交代で皇位に即く。
これにより南北合一がなり和議が成立した。しかし、その後、北朝は、南朝に皇位を譲らず盟約を実行しなかったので、60余年にわたる争乱を招いた。
後亀山帝の祖孫尊秀王は、嘉吉3(1443)年9月23日に兵を率いて、京都を襲い、神器を奪い返し、比叡山にこもったが敗れ、尊秀王は自刃した。これを嘉吉の変という。
楠二郎等が、王の子の南帝王(北宮王)と、神器を奉じ吉野北山郷滝泉寺を御所とし、北朝打倒を図ること10有余年。そして、悲劇は突然起こったのである。
嘉吉元(1441)年6月、赤松満祐が足利義教を謀殺して播磨の国へ逃亡した。9月に山名宗全が幕命を受けて、赤松を倒し赤松家はつぶれた。
1447年赤松の遺臣が赤松家再興を願い出たが、条件として、北山から神器を奪還するということであった。赤松の遺臣約50名は、分散して十津川、北山に潜入し、南朝の遺皇子北山宮に仕えた。
赤松遺臣は機をうかがい、長禄元(1457)年12月2日、夜半の大雪に乗じ、北山宮を倒し、神器を奪還した。後南朝方では、細心の要慎をして、皇子の影武者を何人もつくり、ニ、三の重臣以外は、皇子が、どのお方か知らなかった。同じように粗末な身なり、貧しい食事、全て同じだったので、赤松遺臣は皇子を見抜くのに苦労したが、ある朝、顔を洗っている皇子の中で、一人だけお湯で顔を洗っている皇子がいた。ほのかに立ち上る湯気で、皇子であることを見抜いたのである。誠に痛恨の極みであったろう。重臣のせめてもの切なる愛情が、文字通り命取りになってしまったのである。
弟宮の河野宮は、万一のことがあってはいけないと、別の所に住んでいたが、殆ど同時に襲われて、南朝系は絶えたのである。
+葛 城 陽 子