春のこよみ

1303b.jpg 四月八日の釈尊の誕生日に行われる儀式に「花まつり」がある。もとは浄土宗に限ってこの祭りがあったが、今は一般的になった。
 この日、甘茶をもって潅仏会をするのは、釈尊の誕生を喜んだ八大竜王が、歓喜のあまり産湯に甘露の雨を降らしたという故事により、甘茶を甘露に擬して、各寺院では参詣の子女に甘茶を接待した。

 甘茶は、ユキノシタ科に属する落葉潅木、高さ80㎝くらい、茎・葉ともにアジサイに似て、日本では近江の伊吹山から、美濃国に多産し、畑・庭園に栽培されている。葉を乾燥して煎じたものが甘茶で、古来釈迦立像にそそぎ、そして飲料にもしてきた。
 甘茶の製法は、中夏に虎耳草の葉を摘み、蒸して揉んで、青汁を乾燥貯蔵する。煎じた液は黄色で甘みが強く、タンニンを含むが、テイン(茶素)は含まず、甘味料として醤油の醸造に利用される。また糖尿病患者の飲料にもなるという。
 甘茶には、昔から駆虫の薬効があると信じられていた。甘茶を墨にすりまぜて、四寸~五寸角の白紙に「千早振吉日よ、神下げ虫を成敗ぞする」と書いて、室内の柱に、わざわざ、さかさまに貼ったりして、オマジナイにされたりしていた。

 磯遊びも楽しい行事の一つである。潮干狩りが、思い浮かぶが、磯遊びと潮干狩りとは多少ニユアンスが違っていて、ただ単に潮干の獲物をあさるというだけでなく、弁当や飯盒などを持参して、みんなでで楽しく打ち興じるのである。当然、それは、一家水入らずであったり、ご近所同士、親しいグループの人たちであったりする。
 潮干狩りのハマグリやアサリは、砂をはかせて、汁のみにしたり、焼きハマグリにしたりする。

 ハマグリは、二枚貝の代表的なもので、古代から料理の材料として用いられてきた。<景行紀>によると、景行天皇が房総地方へ行幸されたとき、供の者が、白蛤(うむぎ)をなますに作って差上げたということが記されている。白蛤とはハマグリのことだろうといわれている。
 ハマグリの殻頂に近い内側には歯が深く刻まれているので、殻がしっかりとかみ合っている。不思議なことにハマグリは、同形のものがない。他のハマグリとは、絶対と言っていいくらいにかみ合わないといわれている。そんなことから祝儀の料理に必ずハマグリが、使われているのである。

 野遊び、山遊びもまた面白い。
 昔から<春の料理には苦味を盛れ>と言われている。華やかな春にあって、苦味を求めるのは、天からの配剤であろうか。
 ワラビ、ゼンマイ、コゴミは、シダ類に属し、若葉はクルクルと巻いているのが特徴である。よく見ると、ワラビはこぶしの形に巻き、ゼンマイは時計のゼンマイ形に巻いている。コゴミもゼンマイ形に巻いているが、前かがみの姿になっているので、コゴミの名がうまれた。
ワラビは、山菜の王といわれている。若芽はこぶし形に握り締めた葉を下向けにして生えてくる。至る所の日当たりのよい山野に自生し、地中に長い根茎が横たわり、春になるとサワラビが芽吹く。初夏の頃、根茎を刈り取った後に、もう一度芽吹くのを「夏ワラビ」といっている。アクぬきしたワラビは煮たり、和え物にしたり、炊き込んでも雅味がある。

 五月に入れば鵜飼のシーズンになる。鵜を操縦して魚類を捕獲する漁法で主としてアユの漁に使われるが、起源は明らかでない。すでに上古の時代に行われていたらしく、<日本書紀>の神武紀にウカイベのことが記されている。
 文武天皇の<大宝令(701)>の中にも鵜飼の名があり、美濃国に古くから発達していた。織田信長は長柄の鵜飼を見て漁人に鵜匠の名称を授け、鷹匠と同じく待遇し、保護を与えた。徳川家康も鵜飼を見て石焼の鮎を賞味し、以後江戸城へアユを送らせた。
 明治に入ってからは、宮内省の猟場に編入され保護と奨励を加えられ、全国的に知られるようになった。
 以後、長良川をはじめ各地で、漁期になると、遊覧客が集まり名物となっていった。
 鵜は、鵜型目に属する水禽の一種で、巧に魚を捕食し、口から胃に至る食道が、大きいので、一時的に多量の魚を食する特性を利用したもので、長良川で使われる鵜は、知多半島の篠島海岸で捕獲して、鵜飼用に訓練する。
 普通の鵜よりは大きく身長は、約60㎝、アゴの長さは、24~29㎝、体重は22~35㎏ある。
 鵜匠の操縦する手縄は、檜の繊維を撚り合わせたもので、長さは、約3m、これに鵜をつないで操縦するのが普通である。
 長良川の鵜飼は、夜に限られる。上弦には月入り後、下弦には月前で、かがり火をたきながら、十数隻の連合陣をつくって上流から下流へ漕ぎ下るさまはとても美しい。
 鵜は訓練の度によって漁獲に差があり、各自の分をわきまえて、長幼の順に列を乱さず、各船ごとに古参の順に並ぶのが例である。
  .                          東 雲 宣 子