お菓子の歴史

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原始時代の菓子は果実で、日本でも太古肉食時代には植物性捕食、栄養の調整のために果実で補ったとされている。「古事記」にヨモツシコメがエビカズラ(野葡萄)の実を拾い食べたとか、イザナギノミコトが、ヨモツヒラサカで桃の実をとって投げたとか、とある。

 垂仁天皇の90(61)年2月、田道間守を常世の国へ遣わして非時香菓を求めさせたのが、渡来果実の始めとなっている。
「香菓」は柑橘類の総称、「非時」は時期を超越すると言う意味だから、冬に黄熟しても、夏は青緑にかえる橙の類だろうと言われている。後世、田道間守をしてわが国の菓子の祖神とされている
 淳仁天皇の天平宝字3(795)年には平城京の四方に菓子の並木を植えしめ、次いで平城天皇の大同元(806)年にも街路樹として、漆と共に果樹を植えるようにとの太政官符が発せられている。通行の大衆が日中の暑気を避けるということと,餓える者は、取って食べてもいいということだったらしい。
 孝謙天皇の天平勝宝6(754)年に唐僧鑑真によって、砂糖がもたらされたが、ほんの少しで高貴薬とされ食用として普及はしなかった。果実以外の穀類による菓子の製造がはじまったのは、奈良朝の直前の頃だろうといわれている。既に唐菓子の渡来により、その影響で無糖の餅菓子が造り始められた。
 唐菓子は、仏教伝来以後に輸入されたが、奈良時代を経てようやく発達した。そのうちコントンは、ウドン、ホウトウは麺類になり、菓子として残っているのは、後世オコシといわれたコメくらいである。
 餅菓子は日本固有のものとして発達し、内裏では「福生菓」として重用され、一般にも慶弔用として現代にも用いられている。室町時代になって、北条泰時が倹約の趣旨から風流菓子の製造を禁じたので、ボタモチや草餅の傾向をたどり、草餅の材料は、ハハコグサ(モチヨモギ)だったが、モグサが主に用いられるようになった。依頼、モグサがヨモギといわれて、草餅の代表材料になった。またシナ饅頭の製法が、日本式になって、奈良饅頭となり、塩瀬饅頭となり、茶菓子となり、京菓子となり、上菓子となっていった。
 砂糖を使えるようになって、菓子といえば砂糖菓子となったが、やがて、乾菓子と生菓子に分れ、茶会によって乾菓子は発達したが、室町以後は、上菓子を用い、また白砂糖は上菓子司に限られ、黒砂糖で雑菓子、駄菓子を作った。
 羊羹は鎌倉時代以前に伝来し、室町・安土を経て天正15(1589)年伏見駿河屋の祖先岡本善右衛門が羊羹を製造したのが始まりで、以後練羊羹、小倉羊羹とか、地方に流行して、各地名物の羊羹となった。            東 雲 宣 子