食の価値観 ― バナナ・玉子・いわし

200703_02.jpg 道端に一山100円で売られているバナナを見ると、昔のことをつい思い出してしまう。
幼い頃に風邪を引いたりした時、親しい小母さんがバナナを、お見舞いに持ってきてくれた。その当時はバナナのことをバショウと言っていたように思う。<もうそろそろバショウのおばちゃんが来てくれる>と心待ちにしていたものである。バナナは日常は食べさせて貰えない貴重なものだったのである。当時食べたバナナは、とても甘くて美味しかった様に思う。

 昨今のバナナは、大きさ色々、種類も色々で一概にはいえないが、昔ほど美味とは思えない。わたしの食感が微妙に変っているのかも知れない。

 昔は高価で今安価なのに玉子がある。幼い頃に風邪を引いて熱が出た時は、母は決まって玉子粥をつくってくれた。当時、玉子は高価なもので、なかなか食卓にあがらなかった。だから上等な玉子の玉子粥を食べれば、風邪は治ると信じこんでいた。母の早めの手当てでつくってくれた玉子粥で身体を暖めて、薬を飲んで寝て、汗をかけば熱も下がるので、わたしは母を神様のように思ったものである。もしも、昔の人が、タイムマシーンで、21世紀にきたとしたらス-パーに並んで売られている安い玉子をみて、さぞ仰天するだろう。

200703_03.jpg 私は鰯が嫌いだった。今でもあまり好きではない。ただ健康上のことを考えて出されたものは食べることにしている。

 昔から我が家では、節分の日に頭つきの鰯が必ず食卓に出された。母の説明によれば、<どんな貧しい暮らしをしても、せめて、鰯ぐらいは食べられます様に>という、庶民の願いが込められているのだと言う。先人の生活の智恵で大豆と鰯は、今で言う健康食だから節分に食べたのだろうが、私はどうしても口になじまず他の魚でおぎなっている。

 その鰯も昔程安くない。

  葛城陽子