●おせち料理の今昔物語
まだ九月になったばかりというのに、各デパートでは、おせち料理の予約が始まっていると、テレビのニュースで伝えていたが、早速デパートに行ってみたが、人影は殆どなかった。猛暑が続き、台風や、熱中症、コロナも未だ、収まっていないと言っているのに、そこまでは、関心がいかないのだろう。
和風・洋風・中華風と色彩も美しく、並べてあるが、家族で楽しく召し上がっていただくというのが、テーマになっていて、現代風の考え方に重点をおき、昔風のおせち料理に比べて華やかで見た目は美しい。
食べ物には、生命を保ち、健康を維持する作用の他に、人間関係をなごやかにし、生活に喜びを与えるという重要な働きがある。古い時代から受け継がれてきた伝統的な祝いや、祀りの行事に伴う食べ物には、我が国のそれぞれの風土に根ざした、先人の智恵と喜びが込められていて、お節料理の食材には、それぞれの意味があろのである。
元旦の祝いは、奈良時代から宮廷の公式行事となったが、鏡餅を供えて、雑煮を祝うのは室町時代からとされている。
<おせち料理>
「御節」と書き、正月や五節句などの節日に神に供える「御節供」の略で、神に神饌を捧げて、家族で食べる<なおらい>の食べ物が本来の<おせち>であった。
江戸時代・文化年間(1804~1817)には「組重の事、数の子、田作、たたき牛蒡、その他」の記述があり、江戸では祝い肴の重詰が通例になっていたらしい。
安政二年(1855)のある公家の元日の祝い膳は、重箱には、数の子、牛蒡、ごまめ、串貝、黒豆、梅干しが入っていた。
慶応二年(1866)の元日のある大名の献立には、二汁五菜の祝い膳と、田作、数の子、酢牛蒡、煮豆を入れた重詰とある。
一般的に<一の重>には、口取りとして、キントン、蒲鉾、伊達巻など。<二の重>には、焼き物として小鯛の塩焼き、鰤の照り焼き、鶏肉の松風焼き、など、<三の重>は煮もの類で、八つ頭、牛蒡、人参などの煮〆や、昆布巻きなど。<与(四)の重>は、酢のもので、紅白ナマス、菊花かぶ、その他を詰める。祝い肴の数の子、田作、黒豆は、別の器に盛るか、一の重に盛る。
一説には、主婦は年中台所仕事が忙しいので、せめて正月三ケ日は、台所仕事をせずに休むようにと、いう家族の願いと思いやりからともいわれているが、実際に主婦をやっているものにとって、年末の忙しさは大変なものである。何日も前から計画をたてて、掃除、料理の買い出しや、ぼうだら等は早くからつけこんだり、黒豆もしかり。大晦日は、<晦日ソバ>、お節を重箱に詰め合わせたりで、戦場のような忙しさである。考えようによっては晦日ソバを外食し、<お節料理>も注文する昨今のやり方もよいだろう。
東 雲 宣 子