★昔の酒と肴
◎式三献と本膳
式三献というのは、公式の酒宴の形式で、公家や武家に仕えていた料理の専門家たちがつくりあげたものだった。
先ず鮑熨斗を飾った膳をすえる。これは直接に食べるのでなく、目出度い縁起物として中央にすえておく。次に昆布、勝栗、するめ等をさかなとした第一の膳が出されて酒がすすめられる。
この第一の膳は間もなく引かれて、改めて第二の膳が出る。この膳には煮たもの、焼いたものが出て、お酒がすすめられる。
第三の膳に、第二の膳と同じような料理が出て、お酒がすすめられる。
以上の他に御肴といって、第一の膳のような珍味類を盛り合わせて、客の好みに任せて取って食べてもらうという膳を鮑熨斗の膳のように出しておく事もある。
式三献というのは、要するに三度、膳をかえて酒と肴をすすめることで、これが次の時代になると、一の膳、二の膳、三の膳のいわゆる本膳となり、昭和のはじめ頃まで、式三献の変化した形式が残されていた。
◎町人の時代
徳川時代は町人の時代といわれているが、お酒も肴も、この時代に大きな発展をみせる。お酒屋さんのお酒は、中世以来醸造技術が進み、原始的なやり方が姿を消し麹、米、水を二段がけにすることが、はじまった。良い酒を作ろうと合理化がすすみ、中世では夏の酒、春の酒、秋の酒、冬の酒、また良い酒、良くない酒がいろいろ雑多で、どろりとした酒も、当時の人は良い酒としていた。清酒にはまだほど遠いものであった。この中世紀は日本酒の歴史にとって混沌期であり、酒の肴・料理もまだ雑然としていた。
徳川時代になり春酒、秋酒は造らなくなり、冬の寒造り一本になる、良い酒が出来るようになったのである。これを支えるものとして町人が頭を持ち上げてきた。経済を掌握した町人は今まで歴史になかった自由闊達な市民生活をはじめる。そこで料理屋がなりたつようになった。お酒より少し遅れてのことである。
◎解析料理屋
京は千年の舌といわれて、旨い酒の肴がつくられていたが、中央政権が江戸へ移り、江戸の町づくりがはじまり、大阪も同じ頃から町づくりがはじまった。
各大名たちは、料理職人を抱えて、式三献風の献立やマナーで酒宴を催しており、町人のための料理屋も、はじめはこれにならっていたが、だんだんに武家を離れて、町人の酒と肴が独立してきた。
公家や武家の式三献を、町人の料理屋でマネをして、本膳、として給仕するようになった。そして会席料理という名の献立をつくった。
東 雲 宣 子