ふるさとを訪ねて 那智

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熊野三山とは、
◎熊野夫須美神(ふすみのかみ)を祭る那智大社。
◎御子速玉神(はやたまのかみ)を祭る速玉神社。
◎家津御子神(けつみこのかみ)を祭る本宮大社で、

 これら三社は別々の神を主神として祭っており、これを根本熊野三社権現という。各社とも他の主神を互いに勧請し、三神を一社内に祭っている。

 もとは那智の滝、ゴトビキ岩、八咫烏がご神体として祭られて信仰の対象となっていた。
 平安時代に密教が盛んになり、吉野、大峰と並んで修験道の聖地となり、仏教色を濃くしていった。今回はそのうちの那智大社と青岸渡寺を訪ねてみた。

●那智大社 表参道の石段は430段もあるとか。聞いただけで足がすくみそうになったが、登りだすと、なんとか辿りつけてやれやれひと安心。石段は途中で別れ、右は青岸渡寺、左は那智大社とある。先ず左へと進む。
 那智大社の社殿は、古代からの<権現造>で、創建は仁徳天皇317年。その後、平重盛が造営奉行となって装いを整えた。しかし、織田信長の焼討ちにあい、豊臣秀吉が再興し、徳川時代に入ってからは、将軍吉宗が享保の大改修を行った。最近では昭和10年に大改修が行われた。
 宝物殿の中には、熊野信仰に基づく熊野文化が形となって現れている。奈良朝・平安朝から近代に至るまでの数々の逸品がある。

●青岸渡寺(西国三十三ヵ所第一番札所) 仁徳天皇(313~)の頃にインドより裸形上人の一行七人が、熊野浦に漂着し、熊野の霊地を巡歴ののち、那智大滝の前で勤行していると、観世音菩薩を感得し、草庵を結び幽棲した。
 その後、大和聖の生仏上人がこの草庵に参籠し、玉椿の大樹に如意輪観世音菩薩を刻み、裸形上人が感得した観音像を胸内に納め供養をした。役の行者小角もこの地を訪ね、やがて修験の根本道場とした。
 宇多法皇から代々の上皇が、百数十回も訪れたのを始め、貴族・武家・平民に至るまで<熊野詣>がなされ参道は遠く京都・伊勢・田辺から通じ、那智大社・青岸渡寺にお詣りする様子を<蟻の熊野詣>という言葉が生まれるほど参詣者が多かった。
 法皇の中でも花山法皇は、永延2年(988)御幸の際、深く感じるところがあって、近くに円成寺を造り、三年間棲居し、三十三観音霊場の巡拝を発心した。書写山性空上人、那智山弁阿上人を供に、修験者を従えて正暦二年(991)に旅立った。これが西国三十三観音霊場巡礼の始まりである。                       梶 康子