花物語「竹」
学生時代は、京都・嵯峨野に魅かれて毎年のように出掛けたものだ。それも大抵は五月頃のことで、新緑が美しく、殊に雨上がりの美しさは、眼が現れるような想いで。そこらの竹薮の中から、かぐや姫が現れそうな幻想を抱いたことも一度ならずあった。
折々によって、友人達との会話の内容も異なってきたが、青春のまっただ中のことだから、文学・哲学を語り、愛について熱い夢を語り、意見を交わした友人達も結婚して、平凡な主婦になり、たまに会えば主人の自慢であり、いかに自分が幸せであるかを繰り返し、姑の批判をし、更に年を重ね、子育てを終えて、孫が生まれて、おばあちゃんになると、他人の話に耳をかそうともせず、自分の孫の自慢話ばかりする。そんな友人達を見て私は思ったものである。
一体あの時の熱い気持ちは何だったのだろうか。単なる若さだけだったのだろうか。現実に今ある我々と理想に燃えたあの頃とのギャップは大きすぎる。そういう自分も似たり寄ったりではないか。姉に愚痴をこぼしてみたが、姉曰く「優しい旦那さんがいて、子どもたちも希望の大学を出て、それぞれが結婚をして、立派な社会人になっているのだから、貴方は世間の皆様の中でも幸せですよ。神様、ご先祖様に感謝しなさい」といわれたこともあった。新緑の頃になると、胸の奥底から、何かがじわじわと沸いてきて、改めて自分自身を見つめ直したりしている。
主人を亡くした翌年、急に思い立ち一人で嵯峨野へ出かけた。嵯峨野の竹やぶをゆっくりと歩きながら、過去に連れ立ってきた友人達の顔を思い浮かべながら新緑を楽しんだ。道の両側から竹が覆いかぶさるように、道にせまっていて、風が竹の葉を撫でるようにサラサラと耳に心地よく響いてくる。まるで天国から奏でられている音楽のようだ。幻想の世界だ。かぐや姫にもしかして会えるかも? 夢幻界の中を彷徨っているような錯覚を感じていた。と、突然風が強くなり、辺りはうす暗い。吹き渡る風に竹の葉が大きく揺れうねっている。気がつけば、周囲に誰もいず、不気味な空間に一人私だけだ。その辺を散策していた人々は、どこに行ってしまったのか、全身に恐怖感が走り、一目散に駆け出した。竹やぶを走り抜けたときに雨が降り出し、また走った。
三年後、大好きな嵯峨野を恐怖の思い出のまま残したくなかったので、また出かけた。京都の天気予報を調べてお天気のよい日を選び、やはり、一人で行くことにした。あの恐ろしかった竹やぶが優しく迎えてくれた。またもや幻想の世界に浸りながらぶらぶらと歩いていると、一人の女性が、ひたひたと私を追い越して行った。よく見ると近所の方で、親しくお付き合いはしていなかったが、思わず声をかけ、話がはずんだ。以後親しくさせていただいている。これも嵯峨野のご縁というものか。私は嵯峨野が大好きである。 梶 康子