花物語 <桑・くわ>

くわ
イヤだといっても、毎年八月はやってくる。昭和20年8月15日に第二次大戦は終戦の玉音放送で終わりを告げたが、その十日ほど前のことであった、
 大阪の家を空襲で焼かれ、奈良県の知り合いを頼って疎開をしていたが、日本人の殆どが、毎日の食べるものに不自由していた。父は東シナ海で戦死しているので、母は6人の子でもをなんとか食べさせていかなければと、友人に頼んで田んぼを貸してもらった。見よう見まねで、田んぼを耕し、梅雨の頃に泥まみれで、田植えを終えて、その日は二人で雑草をとりに行った。

その日も<空襲警報>のサイレンがなっていたのだが、大阪に住んでいた頃は、いち早く防空壕に飛び込んだものだが、疎開をしてからは、米軍機は、大阪・神戸への往復の為に通過するだけだったので、のんびりと草取りを続けていた。私はノドが乾いたので土手の桑の木の下で、持参のお茶を飲んでいた。
 そのときである。突然B29が、母を目がけて急降下してきて、母に対して機銃掃射をしてきた。恐ろしさに声も出ない私に母は叫んだ。「動いたらアカン。じっとしときなさい」母はとっさに手を頭にかざし、たんぼに<伏せ>た。敵機は母の伏せっている周囲を二周りして去っていった。恐怖で動けなかったのが、後で思えば幸いだったのだが、なんと、また母を目がけて急降下してきたのである。私は必死に母の無事を祈っていた。神か仏かとっさのことで、無我夢中でひたすら祈った。
 敵機が去って、二人はまた敵機がくるかと心配で動けなかったが、暫くしてもしや母の背中に弾丸が当たったのかと、恐る恐る母の側へ行って見ると、母はあまりの恐怖で、体が硬直し動けなかった。それでも母は田んぼに埋まった為に泥だらけの顔でニッコリ笑ってくれた。私は泥だらけの母にしがみついて大声で泣いた。そして泥だらけのお互いを見て大声で笑った。
 広島に原爆が落とされてから、母は「日本は負ける」と言い出すようになった。あんなことを経験してからは、毎日のように言うので、「そんなこと言ったら憲兵に、捕まるよ」と言っても母は終戦の日まで言い続けた。
 終戦のラジオを聴いた母は「それ見てみ。」と叫んだ。当時の子どもたちは学校で、「いざ、と言うときは神風が吹いて日本は必ず勝つ」と教え込まれ、洗脳されていた。私は「この戦争早く終わってほしい」と思っていたが、勿論、「勝つ」と信じていただけに、そんな母に反発を感じたのを覚えている。今にして思えば、家族の大黒柱の夫に戦死され、家は焼かれ、兎に角、残された子どもを育てなければと、必死に生きている時に、死の恐怖に晒されたのだから、無理もないのである。
 当時、多感な少女だった私は、私の身を守ってくれた桑の木の下で色々と考え、本を読んだ。四月頃に花が咲き、やがてイチゴに似た実を結ぶ。時々実を口にしながら、また本を読み続けた。大阪へ帰ってくる三年ほどの間、桑の木は私を優しく包んでくれた。あのときのように‥‥‥。                   梶  康 子